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2011年5月

2011年5月11日 (水)

二回目、山元町。

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帰ってちょっとして、ツイッターみてたら日本社会情報学会(JSIS-BJK) 災害情報支援チームなる方々が被災したアルバムや写真を洗浄し、データ化し東京に送り、色や傷をできるだけ修復しているらしいってことを知った。

http://ss-watari.blogspot.com/

ボランティアを求めていてフォトショップ使えるので、手伝いましょか?とコンタクトをとり作業会場の大学へ行った。そこでは複写のうまいやり方も求められていて、それも教えられればと。

会場に着くとゴールデンウィークだというのに、ボランティアの女子大生や先生方が黙々とレタッチ作業をやっていた。写真を一目見て損傷の激しさに唖然とした。こんなボコボコなのかよ、と思った。

先生と話していて「被災地ではあまりに被害が酷すぎて戻るものが無い、そのなかで写真の一枚でも戻るととても喜ばれる」って言葉を聞いて、写真って役に立つものだったんだなと思った。

それが海水なのかバクテリアなのか原因は定かではないが、写真はどんどん劣化しカビも生えてきて梅雨の頃には多くが失われてしまうんじゃないかという話しだった。

現地で写真初心者の大学生でもできる一番簡単で有効な複写の方法を教えながら、セッティングだけはぼくがやった方がいいんじゃないかと思っていた。
なので、先生が次の日現地に行くと言った時に、ぼくも行きましょか?と提案したらその場で新幹線のチケットをとってくれて急遽行くことに。

それが夕方前くらいで、そこから友人や先生や先輩に電話をかけて、いらないカメラか三脚かライトくれと言ってまわり、その日の夜にはカメラ一台、三脚二本、ライト一灯をゲット。

そして翌日、仙台の南にある山元町へ。


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自衛隊の方が、個人の大事なものと思われるアルバムや写真や、位牌や卒塔婆や、ランドセルやなんかを体育館に集めていました。
膨大な数。

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それを洗浄作業の行われている場所に移し、順次洗浄。

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こんな感じで、イメージが浸食されていってます。


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アルバムの場合は、ホウキを使って泥をザーッと落とし、ぞうきんで拭いています。
この彼は作業の中ホウキテクニックがどんどん上達し、もはや職人の域に。


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バラの写真は水につけ、指や筆を使って丁寧に泥を落としていました。


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しかし浸食の酷い写真は、洗浄してもこの状態。


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それを干して乾燥させ、ナンバリングをして保管していました。


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それを超簡易セットを組んで、自然光かライトを使って複写しデータ化。


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現地では、ボランティアの学生さんを中心にいろんな方が参加していた。
特に大学生なんてゴールデンウィークを潰して、合コンもしないで写真の洗浄をしている。
作業は決して面白いものじゃないし、むしろつまんない単純作業を延々と続けないといけないのに文句も言わず、手も抜かず、本当に尊敬という言葉がしっくりくる。
こういう人たちがいるなら、それだけで日本はこれからもっと素敵な国になるんじゃないかと思ってしまう。

とりあえずは大学の機材を借りて複写の作業をしていたけれど、それにも期限が迫っていた。帰りの新幹線の中で、こりゃあ帰ったらいろんな人にカメラもらいに行ってみようと思っていた。
知り合いに協力してもらえないかなって思って、ツイッターに「カメラくれ」って投稿した。そしたらあれよあれよと連絡してくれる人が現れて、当面の作業が継続できる数のカメラと三脚が集まって、ツイッターってすげえんだなあと思った。
知り合いだけじゃなく、全くぼくとは面識無い人たちも多く協力してくれて、素晴らしくありがたかった。感動した!(小泉純一郎風に)

ビバIT革命。

帰ってから機材提供してくれる人に会いに行ったり、送ってもらったりして、無事にもらった機材は現地に受け渡すことができました。

今は、もう少しカメラがあると効率的にデータ化が進められることが判明したので、もう少し知り合いにカメラくれ作戦をお願いしています。

そして5/21〜22には現地で写真経験者を集めて、大複写大会を開催すべく有志を募っているところであります。
もうすぐ「思い出サルベージ」プロジェクトのHPができるかと思いますので、皆様ふるって御参加ください!

データ化は急務でありますが、その後多くのデータのレタッチ作業が待っています。

できることがあるかもしれないと動いてみると、自分が思っている以上に役に立つこともあるんです。
迷っているよりも動いてみるといいんじゃないかと思います。
失敗したら全力で謝ればいいんですよ。きっと。

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一回目、松島。

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4月末、松島に行ってきました。

はじめは20才くらいからの飲み友達と話していて、
「東北ののんべえさんには酒が足りないに違いない!つまみと一緒に届けなくては!」
となり、そうだそうだ馬鹿は馬鹿にしか届けられないものがあるんじゃないか、と。

それから東北に行った人や、支援物資を届けた人たちに話を聞いてみたり、ネットを探ってみたり、情報収集をしていました。
しかし、調べれば調べるほど分かってきたことは、それどころじゃないってことでした。

その間にも、地震のちょっと前に取材で行った飯舘村が原発の影響で大変なことになっていきました。
それなら取材の時ラーメンおごってくれた役場のおじさんに、小さい恩返しでもしようかと思い、ダメもとで電話してみたら繋がりました。

おじさんは電話に出て「もうつかれちゃったよ」と言った後、いろんな話をしてくれました。
村の最高齢の102才のじいさまが、みんなに迷惑かけたくないと自殺してしまったこと。せっかく育ててきた牛のブランドが危機であること。毎日いろんな報道のチームが出入りしてること。

なんて返事をすればいいのか全然分からなくて、話をしながら自分のまぬけさをビシバシ感じていました。寿司でもくいたいなあと言ったので、それじゃあラーメンのお礼に持っていきますよ!と言ってみたものの「それよりも実際の現場を見てみろ、テレビとは全然違うぞ」という返事でした。

あの時、そんなこと言わないで下さい!持っていきますよ!!と言えばよかったのかもしれないと思うこともありますが、テレビとネットでしか何が起きたか知らないぼくにはおじさんの気持ちを想像することも全然できなくて、そうですか、なんてことしか言えなかった。

それから少しして、テレビを見ていたら松島の観光協会の人が出ていて、ホテルや船も復活してきたのでみなさん松島に観光に来て下さいね。なんてことを言っていた。

それを友達に話し、それじゃあ行くしかねえなと、観光協会のHPでホテルを調べて予約し行くことにしました。
行く時決めたルールは、しっかり何が起きたか見ることと、現地の迷惑かもって思ったらすぐに帰ろう、ということでした。

そして5時間くらい車にのって仙台へ。
到着する頃には、うす暗くなっていたのですが、ちょっと海の方行ってみるかと車を走らせると、一気に風景が変わり回りに何もなくなりました。
二人とも何を言えばいいか分からなくて言葉が激減しました。

暗くなったので宿に向かい、チェックインして車を置いて、メシを食いに町に出ました。

町は真っ暗で、開いてる店は地元の人の集まるお店かチェーン店の牛タン屋かのどっちかしかありませんでした。どうするか?と話したんですが、ここまで来てチェーン店に入るなら何しに来たんだかわからないよなってことで、小舟という店に入ると地元のおっちゃんとおぼしき人達が5人飲んでいるところでした。

店に入るなりおっちゃんから
「お前ら何しに来た?ボランティアか?」と聞かれ
「違います。来てみました」とまぬけな返事。
そしたら「そーかそーか、お前らよく見ておけよ」と。
そこからおっちゃん達にいろんな話し聞きながらメシ食いながらのんだ。

小舟って店は、瑞巌寺の住職や周りのおっちゃん達が、飲む場所が欲しいってことでみんなで片付けをバシッとやったので開店しているんだそうだ。
庭師さんや、なんかの社長や、放射線測定の仕事で神戸から来てる人やいろんな人がいた。

夕方からずっと飲んでたらしいおっちゃんがあらかた帰った後、お店のママが津波に流されかけた話しを聞かせてくれた。その話しは奇跡のような話しで、ママの生かされたという言葉には大げさなところなんかなんにも無かった。

松島に泊まることがあったら、ぜひ小舟に行くといいと思う。
ママはとてもいい人だし、話しも聞かせてくれると思う。

そしてその日は宿に帰って寝た。


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翌日は、瑞巌寺を見学し、松島さかな市場でお土産を買い込んでから出発。
魚市場にはいろいろ海産物があるので、行く機会があればお土産をいっぱい買えばいいと思う。

小舟に立ち寄って、ママと謎のオヤジと一緒に記念撮影。

そして前日、小舟でおっちゃんにこの道を行けと言われたルートを通って北上。

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ここからはもうぼくに書けることはほとんど無いと思う。
分かったことは、テレビや写真や文字に伝えられることは現実のほんの一部だってこと。

リアス式海岸の入り江の一つ一つにあったであろう集落はみんな壊滅してた。
これが福島から青森まで繋がっているなんて。

一緒に行った友達は寺の息子なんだが、お地蔵さんにお経みたいのを唱えていた。
祈るってことはこういうことなんだと思った。

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途中、自衛隊や土建屋さんが各地で着々と道を作っていた。
人間は負けっぱなしじゃないかもと思えた。

女川くらいまで北上したところで帰って来た。

どこが被害が酷くて死者が何人で、なんてことはなくて全部酷いってことなんだった。

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